障害を問い直す きょうだいとして考えた1

こちらの本では、11章のテーマがあり、その中のひとつのテーマとして「きょうだい」(障害児・者の兄弟姉妹のこと)が取り上げられていました。

個人的に、この章がいちばんのめり込んで読んだテーマだったと思います。(自分が「きょうだい」なもので)

本の内容を引用しつつ、自分なりの感想や考えなど、しばらく語っていこうかと思います。

しばしお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

 

 学齢期のきょうだいが考える障害に関連した問題は、発達障害のある兄弟姉妹への対応や対処方法、友人からの嫌がらせなどであることに対し、母親が予測しているきょうだいの抱える問題は、障害のある兄弟姉妹に対するきょうだいの拒否反応や非援助的行動、家族的活動の制限であった(北村・上田・鈴木・下平・岩川・神山 一九九九)。すなわち、きょうだいは、発達障害のある兄弟姉妹との関わり方や、そのことに関連した友人への具体的な説明などを知りたいと思っている。それに対して母親は、きょうだいに対して、ただ障害者に否定的に接して欲しくないということを期待している。

 

この箇所を読んで、私は当時どうだったか、振り返ってみました。

私の場合は、友人たちが、多少のとまどいはもしかしたらあったかもしれませんが、受け入れてくれていたので、友人に対してどう説明したらいいかといった悩みを持たずにすごしていました。

そして、母は、私にどうして欲しかったのか、今思うとわかりません。けれど、妹の障害について説明を受けてすぐに、その障害について子どもでもわかるように書かれた本を渡されたので、幼いながらに妹について不思議に思っていたこと(例えば、私がおしゃべりできていただろう年齢なのに、しゃべるところを見たことがない。私にとってなんでもない「赤ちゃんの泣き声」が、彼女は異常に苦手)についてなんとなく納得できたのを覚えています。そして、当時なりに妹のような「ぱっと見でわからない障害」の存在に興味がわいていました。

 

それにしても、きょうだいの場合は「関わり方や友人への無理解」が気になるのに対し、母親は「ただ否定的になって欲しくない」とは、悩みの方向や次元が違うと思いました。

まだ母親になったことがないからでしょうか、母親のこの気持ちには、ある種の幻滅感を覚えます。否定的になってしまうかどうかは、親の適切な説明によるものではないでしょうか。親が受け入れてなければ、きっときょうだいも受け入れられない。自分ができないことを「きょうだいなんだから」と押し付けるのは違う。そういう話ではないと思うのですが、なんとなく思ってしまいました。

私にとっては、全世界の人々に「障害に否定的にならないで」と叫びたいくらいです。

自分だって、いつ車いす生活になるか、失明するか、生きていれば可能性はゼロではありません。心だって、耐えきれないほどの傷を負えば「精神障害」となるくらいです。

「障害」とは、テレビや本の中のどうでもいい話ではなく、もっと身近な存在なのだと、知ってほしいです。