障害を問い直す きょうだいとして考えた5

障害者に関わる仕事をしていると、「親亡きあと」という話題が出てきます。

仕事でなくても、きっと家族に障害者がいれば、そのことは引っかかる課題だと思います。

 

きょうだいにとって、「親亡きあと」は、どうなるのでしょう。そしてその言葉は、どういう意味を持つのでしょう。

 

 障害者問題として、発達障害者の世話や介助・見守りは、「親亡きあと」を心配して取り上げられる。しかし、きょうだいにとっては、親の介護の問題が加わることで、『ダブル負担』の状況に直面するというのが現実であろう。

 

きょうだいにとっては、親の老後とともに、障害のある兄弟姉妹の今後についても、気になることです。親が障害のある兄弟姉妹の面倒を見れなくなれば、きょうだいがそれを引き継ぐことになるだろうということは容易に想像がつきます。また、グループホームや入所施設に預けるといった対応も必要になることもあるでしょう。きょうだいが、保護者のようなポジションとなりうるのです。

 

高齢の親と一緒に暮らす家族というのも、今ではそれは「古きよきあの時代のスタイル」となりつつあるのではないでしょうか。

グローバル化し、世界中の人と簡単につながれるようになりましたが、いちばん大切な存在といる時間が失われつつある、と考えることができるのは、気のせいでしょうか。

AIをめぐるいろいろな議論のように、ただでさえ追いついていない制度や、見直されていく法律、それに関係なく早く進む時代。そういったものから零れ落ちている存在のひとつが、「きょうだい」に取り巻かれる問題だと、思います。障害者も高齢者もそうではあるのですが。

本来健常同士の兄弟であればほぼないであろう「兄弟姉妹も介護しないといけない問題」。今回参考にし、なんども引用している「障害を問い直す」は、2011年出版と少々古いですが、きょうだいを取り巻く環境は、根本的にはほぼ変わっていません。ここ数年で障害者のきょうだいにスポットライトがあてられる機会も出てきましたが、それでも、最終的には自分が面倒みる日が来るのだ、という思いは、どこかに存在しています。

親の老後でさえどうなるかわからないのに、さらに兄弟姉妹のことも?と考えると、気が遠くなりそうです。

ある意味、きょうだいというのは、「家族」という形にいちばん巻き込まれやすい存在なのかもしれません。

 

また、この本では、障害者問題の課題のひとつとして、「きょうだいの自立」をあげていました。

私はあえて、これに異議を唱えてみようと思います。

きょうだいの中には、「障害のある兄弟や家族のことが嫌いでしょうがない」という人もいます。できれば関わりたくない、と考えるきょうだいもいるかもしれません。

仮に自立できたとしても、家族のことを愛することができないのであれば、どうなのでしょうか。それは幸せなことでしょうか。

愛していたとしても、兄弟姉妹の存在が心のすみに引っかかり続けているというのも、正直なところ負担です。

きょうだいも自分の人生を生きたいと思います。

私は、「自立」はもちろん大事だとおもうのですが、「解放」ではないか、と考えます。

それぞれが、それぞれらしく生きるために、それぞれの足で、手で、道を切り開けるように。そのためには、「こうしなきゃいけない」という枷から解放されないといけないと思うのです。困ったときに頼れる場所があること、それが、きょうだいにとって「親亡きあと」の課題のように思います。