障害を問い直す きょうだいとして考えた4

 きょうだいは、発達障害者と一緒に生活する中で、発達障害者と自分のどこが同じでどこが異なるのかわからず、アイデンティティが拡散しており(Kaplan and Fox 1968)、アイデンティティの獲得に、発達障害者の影響を受ける(西村・原 一九九八)。

 

アイデンティティ(自己同一性、自分らしさ)が、どうやら弱いらしいです。

つい先ほどまで「自己概念が強い」と書かれていましたが、不思議な現象ですね。

どうやら、自己概念が「自分とはどんな人間か」というのに対し、アイデンティティというのは「自分とはこういう存在だ」という違いがあるようです。ふんわりとは自覚していても、これが私だといえるほどの強い軸を持っていない、もしくは自覚していない、ということでしょうか。確かに言われるまで気づかないこと、多いです。

自分らしさを尊重してる風に見せながら、それをつぶそうとする教育や社会があるこの国で、はたしてアイデンティティが本当にある人間はいるのだろうか、なんて穿ってみたり。

 

 発達障害者が家族にいることについてのきょうだいのとらえ方は、肯定と否定の両面がある(Meyer and Vadasy 1994,1996)。発達障害者が家族にいることを有益であるととらえるきょうだいは、偏見や差別に敏感であり、発達障害者が家族にいることを害であるととらえているきょうだいは、罪悪感や憤りを感じており、発達障害者を擁護する親への拒否感を抱いている(Lobato 1983,1990)。

 

人間なのである意味当たり前なのですが、やはりきょうだいであっても受け入れられないケースもあります。私は幸い、前者側です(否定的に考えざるをえなかった方には失礼かもしれませんが)。言われてみれば、差別や偏見というものにどうもイラっときてしまうことがあります。

 

そういえば今更思ったのですが、海外でのデータでは、きょうだいについて、古いものだと1960年代からあるようです。日本のものだとあっても1990年代が多い。

だからと言って世界が進んでて日本が遅れているとは考えてはいません。その国ごとに研究すべき課題ややりがいのあるテーマは変わってくると思うので。それぞれの国が得意な研究をして、そうでない国々にシェアして、英知が循環していけばいいと思うのです。