「あの日」から、13年だそうだ。
あの日、当時私は高校生。妹は中学生だった。
あの日も、あの日以降も、ずっと関東某所に住んでいて、地震当時の様子を語る資格はないのかもしれない。けれど、思い出せるものは、書き留めておこうと思う。
あの日のあの時間、私は高校の音楽室で、クラスの皆と合唱祭の練習(設立間もない高校だったから、いろいろゆっくりだった)、妹は家で留守番、母は妹の中学の保護者会へ行っていた。
合唱練習中、ピアノを弾いていた子が、「揺れてる」と言った。
次第に強くなる揺れ。時々ある地震だろう。そのうち収まるだろう。そう思っていた。
けれどますます激しくなる揺れ。ただ事ではない。何かが違う。きっと、誰もがそう思った。
女子たちは集まってしゃがみこむ。私も、よくわからないまま、紙切れ数枚の楽譜を頭に被せてしゃがんでみる。男子たちは、そばにあった楽譜や本が入っている金属の棚を、倒れないように押さえていた。ちょっとかっこよかった。
このまま天井が壊れてしまったら、床が壊れてしまったら。蛍光灯が落ちてきたら。
そう思っている間に、少しずつ揺れは収まった。
あまりの揺れに動けなくなって泣いてしまう子、不安を直視しないように、へらへらとして見せる子。さまざまだった。ひとまず教室に戻って、待機することになった。
当時はガラケー。ワンセグが見れる子は、何が起きたのか、友達と共有していた。
ちらっと見せてもらったが、頭が理解を拒否していたのか、あまりよくわからない。
先生から簡単に何か話をされ、帰れる子は安全に気をつけて帰り、電車通学等で、帰れない事情がある子はそのまま泊まることになった。
私は、バス通学だったので、最悪歩いて帰ろう。そう思って帰ることにした。幸い、バスが動いていたので、乗車した。
学校の近くはそうでもなかったが、家の付近の信号機は、赤も青も示していなかった。
帰宅すると、停電した我が家に、妹と母がいた。「メール見てない?」と母に問われ、携帯を見る。メール受信はない。試しに、再受信すると、母のメールが届いた。どうやらメール関係は混乱しているらしいとわかった。
母から聞いた話では、揺れていた当時、妹は一人で留守番中。あまりの揺れに怖くなって外に出たところ、ちょうど隣の部屋に住むおばあさんと会い、しばらく一緒にいてくれたらしい。着の身着のまま飛び出したそうで、「靴とコートを持ってきなさい」とも、すすめてくれていたとか。その後、同じアパートに住む、私の小中の同級生のお母さんとも合流。
母は、妹の中学の保護者会中。地震の対応については、校長先生より、妹の通う特別支援学級の先生たちの方が頼りになったとか。おそらく保護者会もそこそこに解散して、自転車で帰ったのだろう。そして、隣のおばあさんと私の小中の同級生のお母さんと一緒にいる妹と合流。
あの瞬間、隣のおばあさんがいなかったら、妹はどうなっていただろう。いったんパニックになると周りが見えなくなるから、想像するとぞっとする。
けれど、頼りになる大人がいたから、妹はある程度は落ち着けたのではないか、と思う。
電気は止まっていたが、ガスと水は無事だったので、鍋でご飯を炊いて、簡単に夕食をとる。テーブルの中央にはたしかろうそく。それから、地震の被害や避難情報をしゃべり続けるラジオ。
夜の何時だったか、ろうそくや懐中電灯がなければ真っ暗なある時間に、電気が復旧。
さっとお風呂を済ませて、この日はパジャマではなく、いつ何が起きてもいいように、洋服で寝た。
翌朝、高校の部活などの活動は中止。母も、職場に連絡を取り、「子供たちが怖がってて」と休みを取った。
テレビではずっと津波や地震の様子、時々ACのCMばかりが流れていた。
つまらないから近所のツタヤで何か借りて見ようか、という話になったが、臨時休業になっていた。
原発の様子について知ったのはいつのタイミングだったろう?地震発生から数日以内、休校中に暇を持て余して、何かのノートに「チェルノブイリにならないでほしい」と書きなぐっていた記憶はあるので、結構早い時期だったかもしれない。
だんだん、いつもの日常に戻り、テレビでは「頑張ろう、ニッポン」のCMか何かをよく見かけた。「そうだね!」と思う反面、「頑張らなきゃダメ?」とも思う自分がいた。
3月11日、この日になると、いつもこんなことを思い出す。
今回の3月11日は、仕事だった。グループホームの、つけっぱなしのテレビのチャンネルはNHK。様々な東日本大震災関連の特集が流れていた。
ここまでに至るのに、干支を一周する時間を要したのだ。それでも、まだ足りないのだ。ついつい仕事の手を止めて、見入ってしまった。
14時46分、無線放送が流れた。職場の一人が、静かに黙とうの体勢を取ったのを見た。
私も、静かに祈ることにした。
あの地震で亡くなった人が、遺された人が、平安であるように。
いまだ解決の見えない原発関連が、解決するように。
これ以上の悲劇が起きないように。