障害を問い直す きょうだいとして考えた2

 親は半生、きょうだいは一生。親ときょうだいの最大の違いは、親は障害者を「存在」という意味で意識をし、子どもに障害があるとわかった時点から、障害児・者のために作られた制度に接し、子どもの成長の節目や出来事とともに、毎日を生きる。それに対しきょうだいは、障害児・者とともに成長し、障害者を「行動」という意味で意識を向け、将来を見て生きる。

 

「親は半生、きょうだいは一生」とは、言い得て妙だと思いました。

親にとっては、我が子が命にかかわる大病を患わない限り、子どもより先に世を去ります。一方、きょうだいは、後で(おそらく次回か次々回)話題になりますが、「親亡き後」もずっと付き合っていくのです。

障害を持って生まれた兄弟姉妹が好きだろうと、嫌いだろうと、将来を考えずにはいられないのです。

 

発達障害自閉症、知的障害、脳性麻痺、身体障害――。

様々な「障害」と呼ばれる症状がたくさんあるわけですが、それぞれの「障害名」は「記号」にすぎず、それぞれの身体や脳の状態などの違いにすぎません。個人的な考えですが。

少々乱暴で、反感を買いかねない言い方をすれば、「障害だって個性」といえます。

個人的には多少その考えがあります。ですから、「ダウン症だからこう」「自閉症だからこう」というような説明がたまに職場でもあるのですが、耳にするたび「本当に?」と勘繰りたくなるひねくれ者です。

 

 きょうだいは、兄弟姉妹に障害があることがわかっても、そのこと自体をしいて特別なことと思っていない傾向がある(財団法人国際障害者年記念ナイスハート基金 二〇〇八)。

 

きょうだいにとって、障害者がいるということはもはや日常の一部であり、テレビの向こうの話ではないのです。すぐ隣にいるから。

●●障害だからなんだというのだろう。何ができるのか、できないのか。苦手か、得意か。そういったことを目の当たりにしていきます。

そして、そんな兄弟姉妹への親の対応と、自分との対応の違いも実感していきます。

「普通」の家族(全員「健常者」の家族)との違いも、なんとなくとらえていきます。

親が気にさせまいと仮にしていたとしても、年齢を経て知識がつくほどに、なんとなくレベルで実感していくのです。

 

障害者が身近にいるということは、私にとって当たり前のことではあるのですが、少しだけ、妹が「健常」だったらと夢想することはあります。いわゆる兄弟げんかというものをしたのだろうか。進路の相談とかもありえたのだろうか。妹はどんな性格になっていたのか。そんなことはしたところで仕方のないことではありますが。

 

それでも、前を向いていくんだ。

無意識に、そう思っているかもしれません。