障害を問い直す きょうだいとして考えた6

最後には、読み手へのお願い事2つと、「きょうだいと発達障害者が、一台の車の両輪ではなく、それぞれの車を走らせる」ための提案を提示しています。

 

 読者にお願いをしたい一つ目は、社会的文脈と自分の心の関係性を考えていただきたいということである。本章を契機とし、これまで無意識であった自分の行動や態度に意識的になることで、読者一人ひとりが、「障害者とは」「障害とは」について自ら考え、自身の行動を再考することによって、行動を変化させてもらいたい。

 

つまり、私たち一人ひとりが、「自分は今何を思うか、感じるか、考えているか」といったことを自覚していくことが重要だということではないでしょうか。これはきっと、いわゆる「自己覚知」といえます。そうすることで、「障害者に対する社会の偏見や差別が少しずつ変化するであろう」と筆者は述べています。そして、自分の行動を振り返り、差別や偏見について変化していくことで、きょうだいの抱える問題の解消につながるのだ、と。

しかし、そんな甘いものではない、と考えてしまいました。

 

覚えていますか?2016年7月26日に起きた、あの事件のことを。

相模原障害者殺傷事件を。

 

自己覚知をどんなにしたとて、「こっちが正しいのだ」と判断してしまえば、あのような事件だって起こるのです。

もう、7年経とうとしています。きっと多くの人は忘れているでしょう。「そんな事件もそういえばあったね」がせいぜいだと思います。

命とは、生きるとは、その価値とはなんなのだろう。今くらいの時期になると、どうしても考えてしまいます。

 

それでも、私個人としては、きょうだいとして、障害者施設で働く職員として、そして一人の人間として、その「自己覚知」は考えていく必要があるのだと思いました。どんなに凄惨な現実があったとしても。

そういう立場でない方にとっても、どんな業界や世界の人であっても、それは考えるべきことかもしれません。

 

 二つ目は、きょうだいがもつものの見方や考え方を、社会で活かし、反映・還元できるしくみにするということである。

二つ目の提案として、「きょうだいの声を聞く」ことが提案されています。そうすることで、社会の人は「障害」を問い直し、考える機会となる、というのです。

このことについては、ここ近年でやっと動き出しているのではないでしょうか。

たとえば「ヤングケアラー」という言葉が最近、メディアにも出てくるようにもなりました。「きょうだい」に関する情報も、出てくるようになりました。

この本の出版から10年以上の時を経て、やっとそうなりつつあるのだと、思いたいです。

 

 障害者問題を考える上で、障害の有無にかかわらず、自分という名の車は、自分で運転する、という人のモデルを基本にした制度づくりの時代がきているのではないか。自分という名の車を誰かに運転させるのではなく、自分らしいスピードで、自分らしい走りをしていく。そして、そうした走りを可能とするための教育的観点や支援が必要ではないか。

最後に、筆者はこのような提案をしています。この「それぞれの車を走らせる」という表現を、私は、「それぞれの人生を歩む」ことと解釈しました。

その人らしい走りを可能とする支援や施策をつくり、お互いに支援し合える心の関係が作られることで、きょうだい関係にも真の調和が生まれるのではないか、とも筆者は述べています。

 

これは障害関係でなくても、きょうだいでなくても、たとえば、認知症や貧困、子どものことでも大切な、普遍的な考えではないでしょうか。

誰かにハンドルを任せてしまうのではなく、助手席に誰かを乗せたままにするのではなく、一人一人が自立していく。そんな時代なのだと思います。

学校では、社会で使うかわからない難しいことをなんとか詰め込み、家庭や学校の方針によっては、有名な高校や大学へ、という目標もあるでしょうが、足元の大切なものを見る時間というのも、設けておいてほしいなと、ふと思いました。

たとえば、障害者や障害とはそもそも何なのか。何がそうさせるのか。どうしたら共生できるのか。等しく生きているはずなのに、どうしてこうも違うのか。などなど。

身近でなければ、そもそも考えることもないかもしれません。それでも、聞いて、想像することはできるのではないでしょうか。そういう時間を設けることで、いつか、どこかの未来では、もっと障害者が、きょうだいが生きやすくなる。そんなことを夢想しつつ、このシリーズを終えたいと思います。

障害を問い直す きょうだいとして考えた5

障害者に関わる仕事をしていると、「親亡きあと」という話題が出てきます。

仕事でなくても、きっと家族に障害者がいれば、そのことは引っかかる課題だと思います。

 

きょうだいにとって、「親亡きあと」は、どうなるのでしょう。そしてその言葉は、どういう意味を持つのでしょう。

 

 障害者問題として、発達障害者の世話や介助・見守りは、「親亡きあと」を心配して取り上げられる。しかし、きょうだいにとっては、親の介護の問題が加わることで、『ダブル負担』の状況に直面するというのが現実であろう。

 

きょうだいにとっては、親の老後とともに、障害のある兄弟姉妹の今後についても、気になることです。親が障害のある兄弟姉妹の面倒を見れなくなれば、きょうだいがそれを引き継ぐことになるだろうということは容易に想像がつきます。また、グループホームや入所施設に預けるといった対応も必要になることもあるでしょう。きょうだいが、保護者のようなポジションとなりうるのです。

 

高齢の親と一緒に暮らす家族というのも、今ではそれは「古きよきあの時代のスタイル」となりつつあるのではないでしょうか。

グローバル化し、世界中の人と簡単につながれるようになりましたが、いちばん大切な存在といる時間が失われつつある、と考えることができるのは、気のせいでしょうか。

AIをめぐるいろいろな議論のように、ただでさえ追いついていない制度や、見直されていく法律、それに関係なく早く進む時代。そういったものから零れ落ちている存在のひとつが、「きょうだい」に取り巻かれる問題だと、思います。障害者も高齢者もそうではあるのですが。

本来健常同士の兄弟であればほぼないであろう「兄弟姉妹も介護しないといけない問題」。今回参考にし、なんども引用している「障害を問い直す」は、2011年出版と少々古いですが、きょうだいを取り巻く環境は、根本的にはほぼ変わっていません。ここ数年で障害者のきょうだいにスポットライトがあてられる機会も出てきましたが、それでも、最終的には自分が面倒みる日が来るのだ、という思いは、どこかに存在しています。

親の老後でさえどうなるかわからないのに、さらに兄弟姉妹のことも?と考えると、気が遠くなりそうです。

ある意味、きょうだいというのは、「家族」という形にいちばん巻き込まれやすい存在なのかもしれません。

 

また、この本では、障害者問題の課題のひとつとして、「きょうだいの自立」をあげていました。

私はあえて、これに異議を唱えてみようと思います。

きょうだいの中には、「障害のある兄弟や家族のことが嫌いでしょうがない」という人もいます。できれば関わりたくない、と考えるきょうだいもいるかもしれません。

仮に自立できたとしても、家族のことを愛することができないのであれば、どうなのでしょうか。それは幸せなことでしょうか。

愛していたとしても、兄弟姉妹の存在が心のすみに引っかかり続けているというのも、正直なところ負担です。

きょうだいも自分の人生を生きたいと思います。

私は、「自立」はもちろん大事だとおもうのですが、「解放」ではないか、と考えます。

それぞれが、それぞれらしく生きるために、それぞれの足で、手で、道を切り開けるように。そのためには、「こうしなきゃいけない」という枷から解放されないといけないと思うのです。困ったときに頼れる場所があること、それが、きょうだいにとって「親亡きあと」の課題のように思います。

障害を問い直す きょうだいとして考えた4

 きょうだいは、発達障害者と一緒に生活する中で、発達障害者と自分のどこが同じでどこが異なるのかわからず、アイデンティティが拡散しており(Kaplan and Fox 1968)、アイデンティティの獲得に、発達障害者の影響を受ける(西村・原 一九九八)。

 

アイデンティティ(自己同一性、自分らしさ)が、どうやら弱いらしいです。

つい先ほどまで「自己概念が強い」と書かれていましたが、不思議な現象ですね。

どうやら、自己概念が「自分とはどんな人間か」というのに対し、アイデンティティというのは「自分とはこういう存在だ」という違いがあるようです。ふんわりとは自覚していても、これが私だといえるほどの強い軸を持っていない、もしくは自覚していない、ということでしょうか。確かに言われるまで気づかないこと、多いです。

自分らしさを尊重してる風に見せながら、それをつぶそうとする教育や社会があるこの国で、はたしてアイデンティティが本当にある人間はいるのだろうか、なんて穿ってみたり。

 

 発達障害者が家族にいることについてのきょうだいのとらえ方は、肯定と否定の両面がある(Meyer and Vadasy 1994,1996)。発達障害者が家族にいることを有益であるととらえるきょうだいは、偏見や差別に敏感であり、発達障害者が家族にいることを害であるととらえているきょうだいは、罪悪感や憤りを感じており、発達障害者を擁護する親への拒否感を抱いている(Lobato 1983,1990)。

 

人間なのである意味当たり前なのですが、やはりきょうだいであっても受け入れられないケースもあります。私は幸い、前者側です(否定的に考えざるをえなかった方には失礼かもしれませんが)。言われてみれば、差別や偏見というものにどうもイラっときてしまうことがあります。

 

そういえば今更思ったのですが、海外でのデータでは、きょうだいについて、古いものだと1960年代からあるようです。日本のものだとあっても1990年代が多い。

だからと言って世界が進んでて日本が遅れているとは考えてはいません。その国ごとに研究すべき課題ややりがいのあるテーマは変わってくると思うので。それぞれの国が得意な研究をして、そうでない国々にシェアして、英知が循環していけばいいと思うのです。

障害を問い直す きょうだいとして考えた3

この本によれば、「きょうだいは同世代の人よりも自己概念が有意に高」いそうです。

「自己概念」とは、なんでしょう?

goo辞典によると、「自分がどんな人間であるかということについていだいている考え」だそうです。

自覚はないですが、たしかに、「ふつうの家庭」とは違う家庭で暮らしていれば、おのずと周りとの違いや共通点を見出したりするのだろうと思います。

 

母親は逆に、障害児をもたない母親より自己概念が低いそうです。子どもに障害があると診断を受けたときに最も強い衝撃を受け(これはすぐに想像できますね)、節目ごとに悲しみ・怒り・不安を経験するとか。

親の立場となると、障害受容というのは、難しい作業なのかもしれません。

きょうだいとしても、わからない、どうして?ということはあるのですが、親にとってはそれ以上、なのでしょうか。

 

ところで、先ほどからきょうだいと母親のことばかりですね。

父親はどうなのでしょうか?

2011年出版ということを考えると、時代的なものもあるかもしれませんね。

もしくは、父親に関するデータが少なかったか、なかったか。

 

 多くの親は、障害があってもなくても、子どもには幸せになってほしいと願っている。しかし、世話や介助・見守りの必要がある発達障害者と親は、物理的に多くの時間を共有する時間を強いられる。親が、発達障害者への対応を優先せざるをえない環境が、きょうだいの目の前には広がっている。

 このような物理的状況に加え、「きょうだいは(障害がない)から恵まれている」という考えを、親が抱く場合、「障害者」ということ自体に、不憫や可哀想といったネガティブな感覚をもつ傾向が弱いきょうだいとの間に、より理解に隔たりが生まれる。両者の間で、きょうだいへの理解と、「障害」の意味がより歪むからである。そして、発達障害者を過保護に養育する親を受け入れられず、鬱積するきょうだいが少なくないことも、事実である(全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会編 二〇〇六)。

 

私の親の場合ですが、そこまで妹に対して過保護ということはなかったと思います。

親も、両方の祖父母も、妹のことを「障害があってかわいそうだ」という感じではなく、そのままの妹を大事にしてくれていました。そういう環境で育ったから、今の私がいるといっても過言ではありません。両親はもちろん、祖父母たちにとっても、二人目の子どももしくは孫が発達障害児だということを受け入れるのに、どれだけの気持ちの整理が必要だったでしょう。どんな話し合いがもたれていたのでしょう。

それでも、親にとっては大切な子、祖父母にとってはかわいい孫、そして私にとっては妹、なのです。

それでも、母の目の注ぎ具合の違いは正直感じていて、高校大学くらいのころは少し妹に嫉妬していたかもしれません。

時期やきっかけは忘れてしまったのですが、「妹のことばっかり気にして!」とメールか何かで母に文句を言ったことがありました。そのときの回答は「そんなことないよ」といった内容のもので、ひどく落胆したことを思い出します。

親にとって障害児を産み育てるなんてことはきっと想定外だったことで、進路などで自分の人生経験や私のときのパターンが生かせないことが多かったのだろうとは容易に想像できます。でもやはり、子どもとしては「私のことも見てよ」という気持ちもあったのです。

最終的に、「私の大学の入学式も高校のいろんなイベントにも来なかったんだから、大学の卒業式くらい来い!」と強制的に私の大学の卒業式に来てもらい、だいたいの気持ちは落ち着きました。母も多少はわかってたのかもしれませんね。

障害を問い直す きょうだいとして考えた2

 親は半生、きょうだいは一生。親ときょうだいの最大の違いは、親は障害者を「存在」という意味で意識をし、子どもに障害があるとわかった時点から、障害児・者のために作られた制度に接し、子どもの成長の節目や出来事とともに、毎日を生きる。それに対しきょうだいは、障害児・者とともに成長し、障害者を「行動」という意味で意識を向け、将来を見て生きる。

 

「親は半生、きょうだいは一生」とは、言い得て妙だと思いました。

親にとっては、我が子が命にかかわる大病を患わない限り、子どもより先に世を去ります。一方、きょうだいは、後で(おそらく次回か次々回)話題になりますが、「親亡き後」もずっと付き合っていくのです。

障害を持って生まれた兄弟姉妹が好きだろうと、嫌いだろうと、将来を考えずにはいられないのです。

 

発達障害自閉症、知的障害、脳性麻痺、身体障害――。

様々な「障害」と呼ばれる症状がたくさんあるわけですが、それぞれの「障害名」は「記号」にすぎず、それぞれの身体や脳の状態などの違いにすぎません。個人的な考えですが。

少々乱暴で、反感を買いかねない言い方をすれば、「障害だって個性」といえます。

個人的には多少その考えがあります。ですから、「ダウン症だからこう」「自閉症だからこう」というような説明がたまに職場でもあるのですが、耳にするたび「本当に?」と勘繰りたくなるひねくれ者です。

 

 きょうだいは、兄弟姉妹に障害があることがわかっても、そのこと自体をしいて特別なことと思っていない傾向がある(財団法人国際障害者年記念ナイスハート基金 二〇〇八)。

 

きょうだいにとって、障害者がいるということはもはや日常の一部であり、テレビの向こうの話ではないのです。すぐ隣にいるから。

●●障害だからなんだというのだろう。何ができるのか、できないのか。苦手か、得意か。そういったことを目の当たりにしていきます。

そして、そんな兄弟姉妹への親の対応と、自分との対応の違いも実感していきます。

「普通」の家族(全員「健常者」の家族)との違いも、なんとなくとらえていきます。

親が気にさせまいと仮にしていたとしても、年齢を経て知識がつくほどに、なんとなくレベルで実感していくのです。

 

障害者が身近にいるということは、私にとって当たり前のことではあるのですが、少しだけ、妹が「健常」だったらと夢想することはあります。いわゆる兄弟げんかというものをしたのだろうか。進路の相談とかもありえたのだろうか。妹はどんな性格になっていたのか。そんなことはしたところで仕方のないことではありますが。

 

それでも、前を向いていくんだ。

無意識に、そう思っているかもしれません。

障害を問い直す きょうだいとして考えた1

こちらの本では、11章のテーマがあり、その中のひとつのテーマとして「きょうだい」(障害児・者の兄弟姉妹のこと)が取り上げられていました。

個人的に、この章がいちばんのめり込んで読んだテーマだったと思います。(自分が「きょうだい」なもので)

本の内容を引用しつつ、自分なりの感想や考えなど、しばらく語っていこうかと思います。

しばしお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

 

 学齢期のきょうだいが考える障害に関連した問題は、発達障害のある兄弟姉妹への対応や対処方法、友人からの嫌がらせなどであることに対し、母親が予測しているきょうだいの抱える問題は、障害のある兄弟姉妹に対するきょうだいの拒否反応や非援助的行動、家族的活動の制限であった(北村・上田・鈴木・下平・岩川・神山 一九九九)。すなわち、きょうだいは、発達障害のある兄弟姉妹との関わり方や、そのことに関連した友人への具体的な説明などを知りたいと思っている。それに対して母親は、きょうだいに対して、ただ障害者に否定的に接して欲しくないということを期待している。

 

この箇所を読んで、私は当時どうだったか、振り返ってみました。

私の場合は、友人たちが、多少のとまどいはもしかしたらあったかもしれませんが、受け入れてくれていたので、友人に対してどう説明したらいいかといった悩みを持たずにすごしていました。

そして、母は、私にどうして欲しかったのか、今思うとわかりません。けれど、妹の障害について説明を受けてすぐに、その障害について子どもでもわかるように書かれた本を渡されたので、幼いながらに妹について不思議に思っていたこと(例えば、私がおしゃべりできていただろう年齢なのに、しゃべるところを見たことがない。私にとってなんでもない「赤ちゃんの泣き声」が、彼女は異常に苦手)についてなんとなく納得できたのを覚えています。そして、当時なりに妹のような「ぱっと見でわからない障害」の存在に興味がわいていました。

 

それにしても、きょうだいの場合は「関わり方や友人への無理解」が気になるのに対し、母親は「ただ否定的になって欲しくない」とは、悩みの方向や次元が違うと思いました。

まだ母親になったことがないからでしょうか、母親のこの気持ちには、ある種の幻滅感を覚えます。否定的になってしまうかどうかは、親の適切な説明によるものではないでしょうか。親が受け入れてなければ、きっときょうだいも受け入れられない。自分ができないことを「きょうだいなんだから」と押し付けるのは違う。そういう話ではないと思うのですが、なんとなく思ってしまいました。

私にとっては、全世界の人々に「障害に否定的にならないで」と叫びたいくらいです。

自分だって、いつ車いす生活になるか、失明するか、生きていれば可能性はゼロではありません。心だって、耐えきれないほどの傷を負えば「精神障害」となるくらいです。

「障害」とは、テレビや本の中のどうでもいい話ではなく、もっと身近な存在なのだと、知ってほしいです。

障害を問い直す 予告

最近、図書館である本を借りました。

「障害を問い直す」という本です。

 

 

仕事柄、前からなんとなく気になっていた本でした。

今月は、本を読む余裕があったので、思い切って借りてみることにしました。

出版されたのが2011年ということで、データが古いかなと思う部分もありますが、それでも、この本を読めたことは、とても有意義なことだったと思います。

せっかくなので、ここで読んだことや感じたこと考えたことをまとめてみようかと思っています。

 

長くなりそうなので、いったんここで区切ります。

まとめあげるのに時間がかかりそうですが、マイペースに綴っていきますね。