ふつう、常識、当たり前
そんな言葉が、ふとした瞬間に現れる
けれど、そのふつうは、常識は、当たり前は、未来永劫に存在しうるものなのだろうか
そのふつうで、苦しむ人がいないだろうか
その常識で、他者を排斥していないだろうか
その当たり前で、誰かを踏みにじっていないだろうか
そんなことを、ふと思いました。
自覚のあるなしにかかわらず、わたしたちは皆、「ふつう信仰者」なのだと思います。
本来ありもしない「ふつう」の眼鏡をかけているわたしたちは、いざ自分たちと違うことをしたり、違う考えや感覚をもつ人たちを発見すると、「おや?」と思うのです。
「ふつう信仰者」の中には過激派も存在して、彼らは「こんなのおかしくないか」とさらし上げ、自分こそが正義の味方だとでもいうようにふるまう。
わたしたちの持っている「ふつう」という基準は、全人類にあてはまるのでしょうか。
昔にも、未来にも、それはあてはまるのでしょうか。
時代がかわれば、「ふつう」という基準は変化していきます。
そもそも、わたしとあなたでは、「ふつう」の基準は違うのです。
わたしにとって神を信じることは当たり前のこと。あなたにとってはふつうじゃないこと。
あなたにとってあの音は取るに足らないもの。わたしにとっては耐え難い。
あの人にとっては簡単なこと。別の人にとっては理解不能。
だからこそ、例えば「なんでこんなことができない?」という言葉は、しつけや忠告のつもりが鋭利な刃物となりうる。もしかしたらできない事情(障害や生活歴など)があるのかもしれないのに、その背景を無視していることになる。
さらし上げるまではいかなくとも、私たち人間という生き物は皆、ふつう信仰者なのだと思います。そうでなければ、なぜ「障害者」「健常者」「白人」「黒人」などというくくりがこの世界に浸透しているのでしょうか。
いろいろな立場や属性を取り上げてしまえば「人間」であることは変わらないのに。
この世界は、なんて残酷なのでしょうか。
なんて、書き綴ることはいくらでもできても、私自身の行いはまさに「ふつう信仰者」そのものです。
人間、という生き物に本来「ふつう」なんてものは存在しなくて、ただ生きている。それだけだと思うのです。